キョドリながらひたすらに打った文

 何故私はキョドるのか。秋の夜長にふと振り返ってみようと思ったのである。

 さすがにツイッターでは書ききれないのでブログを使用することにしたが、時間的余裕もあまりないので(何故なら明日は月曜日。社畜が恐れる月曜日)、プロットなどは考えず推敲もしないただの僕のセラピーとしての書きなぐりとなることをご容赦いただきたい。

 

 遺伝的要素があるとしたら、父親だろう。僕は父と会話をろくにしたことがないが(僕のコミュ障は家庭内でも発揮されるからだ)、おそらく学生時代はガリ勉で社交性はあまりないタイプであったと推測される。七三のメガネだし。

 また幼少期を思い出すと、僕が人見知りだったのは間違いない。しかし小学生くらいまでは、こちらから積極的にコミュニケーションを取ろうとしなくても、お友達的存在は自然とできていた。スポーツができたことで、中学もハミってはいなかった。しかし振り返ってみると中学生のときには周囲と比べ「親密な」お友達は作れていなかったような気がする。もちろん僕は今中学時代の同級生の連絡先など一つも知らない。僕が仲良くなりたいと思った人にはもっと仲の良い、もっとその人に相応しい人が横にいた気がした。僕はそれを苦々しく思いつつも、得意の人見知りと消極性を発揮し状況を打開したりはしなかった。つまり僕には、仲良くなろうとして仲良くなった、という成功体験がないのだ。そうすると足は動かなくなる。他の人たちが経験値上昇見ててね!のみなみけ状態の時に、僕はその場で指をくわえて震えていたのだ。それはやがて絶望的な差となり、コミュニケーション経験値の絶対数が極小のまま今に至るのである。

 

 さて先日僕がツイッターで「コミュ障に対する「大人しいよね」「なんか喋ってよ」といったコミュハラ(コミュニケーションハラスメント)の被害を広めてゆきたい。これはハゲている人に「ハゲてるね」「毛生やしてよ」と言うようなもので、コミュニケーションモンスターはこれがいかに酷い言動であるか自覚すべきである。」というオモシロツイートをしたところ、全くオモシロくなかった結果山ほどRTされてTVショウにも取り上げられる始末であった。そして「コミュ障は自己責任だろ」的なクソリプもたくさんもらった。

 前述のように、それは分かっているのである。分かっている上で、「大人しいよね」の追い打ちなのである、そして「大人しいよね」が肯定的な意味で発せられた場面は一度もなかったと思う。それは話しかけではなく、その事実を強調し浮き彫りにし改めてその場の人達の共通認識とする以外の意味はないものであると思う。コミュニケーション至上主義、コミュニケーション教を敵視しながら、僕自身がそれを欲しいと願っているという、その悲しみがこのツイートに集約されているということを、「大人しいよね」に攻撃性を感じずに済むコミュニケーションモンスター達は当然理解などできないだろうし、オモシロツイートがオモシロくなかったことに関してはもうそっとしておいてほしい。

 そしてここからはエクスキューズであることは百も承知で書くが、僕は体質的に太りにくい。寝る前にお菓子もバリバリ食べている。太るからという理由で食事を我慢したことなど一度もない。運動はある程度している。しかし僕が太らないのはそれだけが理由ではないだろう。僕は痩せていることが得意なのだ。僕と同じ食事、僕と同じ運動で太る人など山ほどいるだろう。そして太っている人は食事を我慢して運動をすれば痩せる場合が多いだろう。その太っている人がダイエットを自分なりにしつつも体重が落ちず「自分は努力が足りない」と悩んでいるとする。実際努力が足りないのかもしれない。しかし僕はそれを見て「僕は痩せることができている。君は努力が足りない」という発言をしたりはしない。その程度の想像力は欠如していないつもりである。

 

 僕がここまで何を言いたかったかというと何度もことあるごとに言ってるけど、「トモナシって全然コミュ障じゃないしフォロワー多いし普通に友達いるよ」と見てきたように言う人は本当に一体何を見て言っているのだろうか、ということである。これだけは絶対に許さない。だからその仲良い人って誰だよ!どんな想像力だよ!今すぐお前がここに連れてこいよ!ぶっ殺すぞ!早く連れてこいよ!…連れて…こいよ……いるんなら…僕の…目の前に…連れて……きてよ……ねえ!早く!ねえ!